今回の講演のテーマを見たとき、私は正直少し聞きたくないような気持ちになっていました。その理由はきっと「よき死」という言葉を見たからだと思います。「死」という言葉をどうしてか私はあまり考えたくないからです。けれど、デーケン先生のお話をお聞きして、誰もが自分とその周りの人の「死」から逃れることはできないこと、死を意識することは今後の生き方をより良くもできると知って、少し向き合い方が変わった気がします。
まずはじめに、ドイツでは日本のように動物や人を同じ「死ぬ」という1 つの単語で統一したりはしないことをききました。動物の死はただ消滅するだけでの一方通行の死だけれど、人間は最後まで人として成長し、尊い死を迎えられることができるということを知りました。そして私たち看護師になろうとする者たちは、もう少ししか自分には時間がないと分かった人たちの選んだ、自分らしい最期までそばにいられること、患者さんの頑張る姿に自分が元気づけられたりもするのだろうなと考えました。
今年の5 月、私の叔母が38 歳という若さで亡くなりました。私を待っていてくれたのか、病院に着き、声を掛けてしばらくして息をひきとりました。死に目に会えたことは良かったのですが、私は次の日に千葉に戻らなければならず、気持ちの整理が何となくつかないまま、苦しくて仕方ありませんでした。叔母
は病気が分かってからも今まで通り明るくて、はじめは病気のことを私も気付かずにいました。デーケン先生の話をお聞きしているうちに、それが私たちに叔母が残そうとした「叔母らしい姿」で「生き方」であり「愛」だったのだと気づきました。
ずっと病気と闘う叔母を見ていると、むしろ自分の方が弱いと思ってしまうほど強い生き方をしていると思いました。まるで人間のものとは思えないような足や手を思い出し、痛みに苦しむ姿を思い出して私は「死」という言葉を嫌いになりました。叔母を許してくれない病気も大嫌いでした。
お話を聞いた今では、「死」が好きになったわけではありませんが、叔母も「死」を意識したからこそ、最後まで自分の好きなことをして生きられたのだと思えます。私ももっと自分が輝ける、より良い生き方をするために、患者様がより良い生き方を選び全うすることができるように、「死」を見つめることも必
要なのだろうと感じました。
私は人の死に正しい、正しくないがあるとは少しも思いません。良い悪いがあるとも思いませんが、できれば誰にも寂しい孤独な死に方はしてほしくありません。デーケン先生のお話で、看護師がそばに寄り添うだけで患者様が「独りではない」と思えることをお聞きしました。そして相手への愛の表現ともいえ
る「ユーモア」の存在はより良い生き方につながることを知りました。
私たちは患者様の本当にすぐそばにいる人間になります。患者様ないつも苦しんでいます。看護師の笑顔は患者様に希望を与える大切な能力であると学びました。私たちに病気が治せるわけでも衰弱を止められるとも限りませんが、患者様が未練ばかりを残して自分らしく成長できない選び方をされないよう、バックアップしていきたいと思います。実習前にこのような貴重なお話を聞くことができて本当に良かったです。私も「よく生き、よく笑い、よき死に出会う」ために、叔母と約束した「看護師になる夢」のために頑張りたいとまた強く思いました。